「他人を愛する力」という言葉を聞くと、寛容さ、慈愛、思いやり、理解……などが連想されます。
一方、「自分を愛する力」という言葉にはどんなイメージがあるでしょうか?
もしかしたら、自己中心的、わがまま、うぬぼれといった、「他人を愛する」よりもネガティブな印象があるかもしれません。

「他人を愛する」ことと「自分を愛する」こと。
私たちはこの二つの「愛」を、どのように育むことができるでしょうか。
人は常に、誰かとつながっている存在


人間は一人では生きていけない生物ですから、仕事であれ、プライベートであれ、他者との関係性を必要としています。
たとえ山奥で一人、俗世間と断絶した暮らしをしている人がいたとしても、その人の中にもかつて関わった人の影響があります。
あるいは想像の中の誰か、自然や神、宇宙という大きな「他者」などとのつながりを感じる瞬間もあるでしょう。
物理的に関わっていなくても、その人は他者と切り離されてはいません。そもそも、その人の存在自体が、両親をはじめ脈々と続く世代があって成立しているからです。
きっと彼は一人で薪を割る時にも
「この技術は誰かが教えてくれたものだ」
「この山の木々が私に与えてくれている」
「この火が私をあたためてくれる」
といったつながりを感じたり、感謝する瞬間があるかもしれません。
人はどこまでも「関係性の中で生きている存在」です。
たとえ孤独を選んだとしても、それは孤立ではなく、「他者」との深い関係性の在り方の一つになるのです。
他人を愛する前に必要な、もうひとつの力


というわけで、たとえ物理的に一人だったとしても、私たちは例外なく自分以外の存在との関わりの中で生きています。
そして、自分以外の他者との関係性に愛を注ぐためには、他者を愛する前に、どうしても必要な「ある力」を持っておかなければなりません。
それこそが
「自分自身を愛する力」
です。
一見、「わがまま」「自己中」「うぬぼれ」とも取られやすい、自分自身を愛する力が、なぜ他者を愛する力よりも基盤になるのかというと──
自己愛がないとき、愛は苦しみに変わる


それは、自分を満たさずに誰かを愛そうとすると、どこかで見返りを求めてしまったり、欠乏を埋めるための愛になりやすいからです。
愛を差し出すためにはまず、自分の内側に愛が満ちている必要がある。
自分が自分に愛を注ぐことを否定したまま、他の誰かを愛そうとしても、「埋めたい」「報われたい」という無意識の期待を含む行為となって現れるでしょう。
すると、相手をコントロールしたり、評価や見返りを求めたりして、余計に苦しくなっていきます。
自分の痛みに寄り添うことが、愛の始まり


誰かを愛しているとき、私たちはその人を深く理解し、共感し、受け入れたいと願いますよね。
そのとき私たちは、その人の痛みや喜びを想像して寄り添おうとします。
自分自身への愛も同じで、自分を深く理解し、自分の感情に共感し、寄り添うことが「自己愛」です。
つまり私たちは、自分の痛みや喜びを想像して寄り添おうとすることで、自分に愛を注げるんです。
だから自分を愛するということは、自分の痛みに気づくということです。
それはわがままや自己中、うぬぼれとは全く異なる、ただまっすぐに自分自身を見つめて寄り添おうとするまなざしです。
「私は愛されない」の根にある感情とは?


誰かを愛しても、その愛が伝わらなかったり、愛を差し出した結果、自分が傷ついたりしたときに、もしも自分を愛していないと、「私は愛されない」「私の愛は足りない」と思いやすくなります。
でも、自分への愛がしっかり根づいていれば、どんな反応が返ってきても、「それでも私は、愛を生きる」と自分の足で立つことができるでしょう。
自分を愛することは、愛のエネルギーを保ち続けるための器を育てることなのです。
何よりも自分を愛するということは、愛するという実感の最初の体験となるものです。
自分の痛みに鈍感なままだと、他人の痛みに寄り添うのは難しいのです。
自分を愛することは、自分の痛みに愛のまなざしを向けること。
その痛みの中には、無力感、罪悪感、否定された記憶などがとじこめられているので、自分を愛するには、その感情の記憶に光を当てる必要があります。
だからこそ、内なる旅はとても勇気がいるプロセスなのです。
小さな一歩が、魂の旅の扉を開く


といっても、いきなり「自己愛MAX100%!」を目指す必要はありません。
最初は
「こんなに今まで自分を蔑ろに扱ってきたなんて、私はなんてひどい人間なんだろう」
という嘆きからスタートするかもしれません。
小さな痛み、がっかりした気持ち、さびしさ、そういった感情をそのまま、否定せずに見てあげることから、自己愛への扉は少しずつ開き始めます。



私たちはいつでも、今いる場所から始めることができるのです。